3.「自分」をどう出すべきか?

(1)個性の問題

 津山教会時代は若さも手伝い「やる気十分」〜自分の夢、希望を達成すべく邁進していました。しかし、フッと気づいたのです。自分の願望、個性を強く出し過ぎたのではないか。そのため多くの人を傷つけてきたのではないか?こんなことでいいのか?自問自答しながらの姫路教会赴任だったと思います。

 自分の個性・願望にどう対処したらいいのか?出来るだけひかえた方が良いのか?しかし、ひかえてしまうと「自分」が「自分」でなくなるのではないか?姫路教会での働き始めの葛藤でした。

(2)「せっかく」私をこのような者として下さったのだから

そんな私に光を投じてくれたのは、一人の盲人牧師の「ことば」でした。たった一行の文章でしたが、私にとって衝撃的な転機となったのでした。

50代をすぎて突然失明したご主人。奥さんに勧められて盲人牧師のいる教会に出かけて、点字を習うことになりました。盲人牧師曰く「ある日とても気分良く話しがはずんだので、思い切って言ってみた。『あんたせっかくめくら(今日では差別用語と言われますが原文ではそうでした)になったんやから、何かさせてもらおうじゃありませんか。』」すると、「ワッハッハッ、あんた本当に良いこと言うてくれはる!」と応答されたと言うのです。

「せっかく○○になったんやから…」このことばは心に深く響きました。「そうだ、せっかく神さまは私をこのような個性をもった者として造り生かし、用いようとして下さっている。だとしたら、それを生かして精一杯奉仕させてもらおうではないか!」〜とても勇気が湧いてきました。

早速取り組んだことは、礼拝堂床のニス塗り作業でした。重いベンチを移動するのに引きずっていたのでしょう。ニスが剥がれ傷ついた部分が白くなって汚い床になっていました。「きれい好き」な私には「礼拝堂は美しく整えておきたい」との思いがある。「これこそ先ず私の個性を発揮すべき領域」とばかり、重いベンチを運び出し、ニスをきれいに塗りました。日曜日、礼拝にお出でになった信徒の方々がビックリされるのを見たのは、大きな喜びでした。

(3)私は私らしく〜気質を受けとめる信仰のありよう

「個性を生かす」そのことは聖書的にはどういうことなのか?そのことに明確な示唆を与えてくれたのは、O.ハレスビーの「気質と信仰」という書物でした。

 生まれながら神が遺伝子に組み込んで下さった個性は、変える必要はない。いや変えられない。与えられた個性の特徴を把握し、良い部分を磨き生かす。弱い部分は謙遜になるため、またお互いに補い合い助け合うため。そうしたことのために必要な自己鍛錬まで記されていました。

O.ハレスビーによる聖書に基づいた示唆は、自分を含め妻や子供達、出会っていく教会員の方々の個性を生かすための大きな指針となったのでした。