(1)厳しい指摘
会社を辞め、神戸ルーテル聖書学院に入学。寮生活と聖書の集中的学び、合わせて日曜日の教会での奉仕が始まりました。寮では二段ベッドによる二人部屋の生活。同室の先輩からある日言われました。「お前の信仰には十字架がない」と。これはショックでした。しかし、それは私の信仰理解について的確に的を射た指摘だったのです。知識としてはキリストの十字架の意味は理解していました。しかし、「救いの確信」にまでは至っていなかったのです。
(2)十字架の出来事は私のため
「受難史」という授業がありました。講師はデンマーク人のウインテル博士。聖書の記述を一つ一つ確認しながら、キリストの受難の出来事が語られていきました。ある日の講義で「神は羊たちを打つ代わりに、キリストを打たれた!」という内容が語られた時、不思議に「分かった!」のです。「キリストの十字架は、他でもない罪深い私の為だった」と。ゼカリヤ書13:7「牧者を打ち殺せ」の引用カ所でした。
十字架の意味が「腑に落ちた」のです。もやもやと今ひとつ納得出来ていなかった十字架の出来事の意味が〜分かったのです!その時の喜びは、ことばに現せないほどのものでした。そのように導いてくださったのが「聖霊の働きだ」ということは、後で分かるようになりました。(「聖霊」のことも良くはわかってはいなかったのです。)
(3)聖書の内容は律法と福音にあり
カール・F・ヴィスロフ師の書かれた「キリスト教教理入門」という書物との出会いも、私の信仰理解に大きな影響をもたらしました。先生ご自身がノルウェーから来日され、親しく講義して下さったのです。先生の人格、語られるメッセージ、書物にまとめられた深くかつバランスの取れた内容は、私のキリスト信仰の骨格を育ててくれたように思います。特に「律法」と「福音」の明確な区別を理解させていただいたことは、筆舌に尽くせない導きでした。