(1)引っ込み思案の私への牧師の対応

  教会に通いつつも、人の顔色が気になり、劣等感からなかなか抜け出せないでいました。そのためどうしても引っ込み思案になってしまうのです。そんな私を牧師は、登山に連れ出してくれました。この先生は前にも触れた説教はお上手ではありませんでしたが、ボーイスカウトを熱心になさっていました。
蒜山高原から歩きに歩いて大山に到着。翌朝早く、桝水原から大山の頂上を目指しました。一緒に登りながら、行き交う人に元気よく声をかけて登るその牧師に励まされ、少しずつ積極的な生き方が出来るようになっていきました。
 

(2)みことばの力

  牧師の助けによって、少しは積極的に踏み出せるようになりましたが、やはり人の評価、顔色が気になることから抜け出せないでいました。そんな私が決定的に劣等感から抜け出せたのは「みことば」との出会いでした。

*ひと様の評価はいかなるものかが、ハッキリと分かったからでした。
  「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりする…」第2コリント6:8(新改訳)
  どんな良いことをしても、人は良くも言えば悪くも言う。そんな人の評価によって自分の人生を左右されてよいものか。そのことが明確に分かったのです。
 
*私を評価するのは、ひと様でもなく自分でもない。「神さまだ!」と知ることができたからでした。
 「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」第1コリント4:3〜4
 
*神さまの前の「私」は価値ある存在だと知ったからでした。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ヨハネ3:16(新改訳))
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4(新改訳)
 
*「私は私」として神の前に胸を張って生きていけば良い〜との確信を得たからでした。
 「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第2コリント6:8(口語訳)