(1)信じたいのに〜見えない神を「信じる」とはどんなことかよく分からない!

 尊敬するクリスチャン達の人生のように、私も「信じて生きていきたい」と強く願うようになっていました。でも、見えざる神を「信じる」とはどういうことなのか、よくわからないのです。「信じるとはどういうこと?」そんな疑問を抱きながら、「モヤモヤ」とした気持ちが長い間続いていました。
 

(2)聖書が教えるように生きられないもどかしさ!

聖書に記されている「自分を愛するように隣り人を愛しなさい」との教えについて、「これは真理だ」と素直に納得できました。そして、そのように生きようと必死に努力してみました。ところが「アァ、何と言うこと!」愛していこう〜とするのに、腹を立てたり憎んだり…。とても「自分を愛するように、隣人を愛する」ことの出来ない現実に悩みが尽きませんでした。

(3)思いがけない宣教師からの提案!

そんな時、かのノルウェー人宣教師から声をかけられました。「洗礼の日だが、私の夏期休暇の都合で7月5日はどうかね」と。これには驚きました。そんな理由で「洗礼を受ける」という大事なことが、そしてその日程が決められていいのか?
 「信じるとはどういうことか」モヤモヤしていた私。聖書の教えのように生きられないで苦悩している私。そうでありながら、今まで見てきた立派なクリスチャン達のように生きたいと強く願っている私。そんな私にとって《クリスチャンになるための洗礼はいつ、どんな状態になったら受けられるのか》「決め手」を模索していた私にとって、この宣教師からの「具体的な日程の提示」は、大きなチャレンジとなったのでした。
 
 「悔い改めが〜」「キリストの贖いは…」とか「いつ信じましたか…」など、いろいろ尋ねられながらアプローチされていたら、私のようなタイプはいつまで経っても踏ん切りがつかず迷い続け、いつの間にか教会を去っていたのではないかと思います。
 

(4)背中を押してくれた一人の老婦人

 教会にいらっしゃっていたひとりの小柄なおばあちゃんが、若い私にこんなことを言ってくれていました。「いつまでも浅瀬でポチャポチャと遊んでないで、思い切って深みに飛び込んでご覧なさいよ!」と。その言葉の意味が良くわからず、聞き流していました。

 ところが、宣教師からの思いがけない声かけを受け、「そうだ、いつまでも“ああでもないこうでもない”と、思い悩んでいないで、思い切ってキリスト教(キリスト信仰)に飛び込んでみよう!」と決心したのです。

◎かくして、1964年、東京オリンピック開催の年、20才の時に思い切って洗礼を受けたのでした。