(1)牧師按手

 聖書学院(1年課程)、教会での実習1年、聖書学院(2年課程)、神学校教職課程の4年間を経て、T教会赴任。働きを始めて1年経過したところで、教会役員会から牧師按手申請が常議員会に提出される。それを踏まえて牧師按手委員会発足。牧師按手のための論文提出。説教審査、面接などを経て、やっと牧師按手の許可の通知。
 毎年3月に開催される教団の総会の席上で、牧師按手式を執り行っていただきました。東芝電気に勤めていたエンジニアが、31歳にして正式に牧師として立つことになったのでした。
 

(2)父の死を通して

 実は牧師按手式の通知を受け取った直後、私の父は雪の事故で急に亡くなったのでした。葬式で父の棺を担ぎなら自問自答していました。「なぜもっと長生きしてくれなかったのか。牧師按手を受け正式に牧師として立つ私を見てほしかったのに!」
 その時、静かな声なき声が聞こえてきたのです。「もっと長生きしてもらいたかったと願うのだね。ではいつまで長生きしてもらいたいのか? 牧師按手が終わるまでか? お前の娘たちが成長し結婚する姿を見せるまでか? 孫が誕生するまでか?」…私は答えられませんでした。「いつまでなら〜」など決められるものではありません。
 そこでやっと気づきました。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道者の書3:1〜2)と。
 私は父に長生きして欲しいと願っているが、長生きしてどんな人生になるかなど分からないではないか。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書3:11)
 そうなんだ。私には将来を見通せないし、決められるはずもない。神は良しとしてくださったときに、父を召してくださったに違いない〜そう納得することが出来たのでした。
 

(3)駆けつけて共に涙してくださる教会員の方

 父の死は雪の事故でしたからテレビのニュースで流れたのです。それを見ていた入院中の一人の女性教会員が、病身でありながらタクシーをとばして教会の牧師館までやって来られました。玄関先に立った彼女は「雪の事故で亡くなられたのは、先生のお父さんでしょう!…」とおっしゃりながら、涙を流してくださったのです。
 悲しみを共有し、共に涙して下さるその方の熱い思いやりの心に触れて、私は深い感動を覚えたのでした。