(8)自分ならどうする?!

 神学生時代の後半、責任牧師はアメリカに留学。留守中はノルウェー人宣教師が責任者になりました。歌が上手でアコーディオンを弾きながら讃美。しかも、わかりやすい説教をされるハンサムな方。しかし、やはり人には弱さがあるものです。実務的なことは今ひとつ!物足りなさがつのっていきました。

 若さゆえの未熟さ傲慢さを自覚しつつも、「どうしてこうしてくれないのか。どうしてこうなのか。」どんどん宣教師への不満がつのっていきました。「これはクリスチャンとしてまずい!」そう思いながらも、その宣教師へのイラダチや怒りが増していったのです。

 そうした精神的に不安定になっていたとき、恩師が声をかけてくださいました。「宣教師に不満をぶつけているが、それがどうなるというのか。彼らはやがて本国に帰っていく。日本の宣教を担っていくのはお前たちだ。これからの日本のためにおまえならどうする?どうしたらいいと思うか?」
 
 この指摘は目からウロコでした。「ああ、そうだった!宣教師がどうのこうのではない。私ならどうするか。どうさせてもらうかだ!」この気づきはとても大きなものとなりました。それ以来、どんなことに対しても何をするにも、人さまがどうこうではなく、「私だったら、あるいは、私は何をすべきか?」と、主体的にものごとに取り組む姿勢を身につけさせていただいたのでした。
 
 この変化のおかげで、何ごとにも「どう取り組んだらいいか?」「どうしたらもっと良くなるだろうか?」と、考え取り組むことが楽しみになったのでした。