(1)聖書学院1年課程修了も間近になったとき
教団の責任ある立場の宣教師から声をかけられました。「廣野さん、学院を卒業したらT教会に行って伝道師として働いて下さい」と。「道が開かれるなら進みなさい」のアドバイスに従い、教会での働きに踏み出したのでした。
サラリーマン生活しか知らない私です。初めての「教会」での働きは戸惑うことが多かったですが、必死に取り組んでいきました。
(2)母教会から赴任先の教会に旅立つにあたって
M牧師にサインをお願いしました。記念に新しく購入した革表紙の聖書です。M牧師は真新しい聖書の裏表紙に第1ペテロ 2章6節 のみことばを書き記してくださいました。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
20才代でもらったこのみことばは、78才になった今日の私にとってもまさに確信となっています。確かに彼(イエス)に信頼するものは失望させられることがないのです。
(3)初めての礼拝での説教
聖書学院でのわずか一年間の学びと訓練を終わっただけの私でしたが、当時緒責任牧師であったB宣教師は、私に礼拝での説教をするように言いました。緊張しましたが確信を得ていた律法と福音、十字架の奥義に関する聖書箇所だったこともあり、精一杯聖書のことばから私の証しも含めて語らせていただきました。
礼拝が終わった後、責任牧師のB師は私のもとに来ておっしゃたのです。「廣野先生、今日のメッセージありがとうございました」と。驚きました!若輩者の私の語る説教に、経験と学びの豊かな宣教師牧師が頭を下げてお礼をおっしゃってくださったのです。
日本の一般通念では、「若造が偉そうなことを言って、何ほどのものか」と、軽くあしらうところ。しかし、B宣教師は語る者が若かろうと未熟だろうと、その内容に対して深々と敬意を表する〜その姿勢に主に仕える者の大切な姿勢を体得させていただいたことでした。
(4)派遣されたT教会には付属幼稚園があり
所在地であるT市の周辺各地に出かけてたくさんの「家庭集会」を行っていました。12月のクリスマスシーズンに入った時のことです。各家庭集会でのクリスマス会、青年会・壮年会・婦人会それぞれのクリスマス会、幼稚園のクリスマス会〜などなど、ある方によると20回を数えるほどのクリスマス集会が行われたのです。
新米伝道師の私は全ての集会に参加〜最後には疲れ果て「クリスマスおめでとう!」どころではなく、「クルシミマス」の状態に陥ってしまいました。「まだクリスマス集会が残っている。クリスマスおめでとう!と言える状況じゃない!これではダメだ!」悲壮な思いで下宿先に帰宅。呻くように祈らざるを得ませんでした。
そのとき、1つのみことばが私の心によぎりました。「シモン、シモン、見よ。サタンがお前たちを麦粒のようにふるいにかける許しを切に求めた。しかし、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカ 22:31 〜32
そうだ。サタンはこともあろうにクリスマスを祝う集会に忙しくさせて、私の信仰をダメにしようとしていた。しかし、主イエスは私の信仰がなくならないように、祈って下さっているではないか。〜ああ、その時の喜び!〜主イエスに祈られている幸いを強く強く示されたのでした。
あい前後して、母教会のM牧師から「祈っているよ」との便りが届きました。祈られている幸いを教えられ、励まされ、それ以来長い年月感謝しながら、今日の日まで歩ませていただいています。