西宮南福音ルーテル教会のホームページがリニューアルされ、ブログのページが出来ました。これを機会に、少しでもキリスト教との出会いについて考えていらっしゃる方のよすがになればと思い、〔廣野牧師〜信仰の歩み〕の一端をご紹介させていただこうと思います。
 
 まずは、私のキリスト教との出会いから始めたいと思います。
 

(1)最初の出会いは絵表紙の小さな聖書だったと思います。

 家の片隅で見つけ、「これは何の本だろう?」と不思議に思いつつひっくりかえして見た記憶が残っています。岡山県北の山深い村まで、足を運んで聖書を配布して下さった方があったんだ!と、今思うと感慨無量です。
 

(2)次の出会いは、我が家(生家)に一人の方が訪ねて来られたことでした。

 ある日のこと、その人は大きなかごを自転車に付け、我が家にやってきました。よせやさん~当時は「くずやさん」と呼んでいたように記憶しています。今で言う廃品回収業でしょうか。鉄くずや新聞紙を買い取ってくれるのです。ですから、子供にとっては格好の小遣い稼ぎ出来るので、楽しみに日ごろから空き缶などを集めていました。
 
 ところが、その方は仕事をそっちのけで母に一生懸命何か話しているのです。当時の私は、小学校に上がるか上がらないかの年齢だったと思います。鼻水を垂らしながら、母の着物をつかんでそばに立っていました。詳しい内容は分かりませんでしたし、覚えてはいないのですが、どうもその内容は、「自分がクリスチャンであること、毎週教会に通っていること、生きることが楽しい…」そんなことを話しているようでした。
 
 幼かったにもかかわらず、その人の嬉しそうな顔、輝いた笑顔は不思議に記憶に強く焼き付いているのです。その時はまさか私がクリスチャンになり、牧師になるなどとは夢にも思わないことでした。
 

(3)次の出会いは高校生の時でした。

 場所は公立高校の校内でのこと。「何かくれるらしい」というので、興味本位に出かけてみると、「絵表紙の福音書」~たぶん四分冊ものだったと思いますが、いただきました。その時は良くわかりませんでしたが、ギデオン聖書協会のメンバーの方々が、無料で分冊聖書を高校生の私たちにプレゼントして下さったのでした。
 

(4)この高校生の頃が私にとっては悩み多き時代でした。

 「何のために生まれてきたのか」「何のために生きているのか」「何のために勉強するのか」「異性へのときめく思いはどうしたらいいのか」悩みに悩む日々でした。学校の教師は「とにかく勉強しろ」の一点張り。空しさを覚えるばかり。止むにやまれず、悩みのうちをありったけ長い長い手紙に書いて兄に送ったのも、その頃でした。